富の再分配を哲学する

 

あなたの趣味がサッカー観戦だとする。

 


その試合は一風変わっていて、頑張りの見える選手に直接お金を支払う仕組み。点をたくさん入れる選手にお金が集中し、努力を怠った者へは集まらない。

 


こういうシステムの試合において、観客は自らが納得した金額を支払っている。そして、サッカー選手からしても、労働の対価を得ているし、それに合意して試合に出ているわけだから、文句はない。もちろん、スポーツに興味関心がなく、家で漫画を読んでいる者にも不満はない。

 


富を再分配しようというのは、頑張って稼いでいる人の労働意欲を阻害したり、自由に使っていいはずの収入を、政府によって強引に取られることになる。

 


富裕層がそれに合意していないのであれば、そのような政策は個人の権利を侵害している。金持ちへ課税するなどして富を奪うという行いは、本当に正義だろうか?

 


昨日書いた自己所有権の話にも繋がるが、労働をして得た対価は自分のものであるはずだ。ならば、政府や他人に使い道を決められる筋合いはない。

 


つまり、富の再分配は個人の自由を傷つけることになり、権利侵害の問題へと発展していくのである。

 


さて、あなたは貧富の格差についてどう思うか。哲学してみよう。

 

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