小学生の頃に同級生から神という概念を教わりますが「そんなものいるわけない」と返したのを覚えています。
中学生になるとニヒリストのブログ*1を読み漁り、考えを深めていきました。それから次第にお爺ちゃんの影響で仏教に触れます。そして中道という教えの偉大さに感銘を受け、不可知論者になります。しかし、その考えを数か月後には捨てているとは思いませんでした。
神を信じるキッカケ
バイト帰り、車の前へ飛び出しました。次の瞬間、周りが光に包まれたかと思うと、道路に倒れている自分を空中から見ていました。どこからともなく「神はいる」とお告げみたいなものが聞こえました。その直後、肉体に意識が戻っていました。
その体験をしてから、お坊さんの言う事にも疑問が生じるようになります。
”徳を積む”とかいうけど、それを判断するのは誰?
因果応報とか輪廻転生とか言うけど、私は存在しないんじゃないの?*2
この世の全てを疑っても、自分を疑っている私は存在するじゃないか!*3
その問いに対し、お坊さんはこう返しました
「悟りたければ出家せよ」
「俺にもそんな時期があったが、在家で得られる知識では仏教を知ったことにならない」
数日悩みましたが、僕は働くことを選びました。なぜなら、貧乏な家庭なので働き続けないと家族が苦しみます。出家なんてしてられないのです。仏教は僕には合わないと思い、離れる事にしました。
不二一元論
不二一元論について簡単に言えば、世界は夢幻で真我こそが実在であると悟る宗派です*4
しばらくして、有神論などについて調べていました。交通事故の神秘体験が頭から離れないからです。そこで見つけたのが、ラマナ・マハルシでした。僕は彼のウィキペディアを読んで感動しました。
「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨した。肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の根源を探求することで、「私」が根源である真我に溶け込み、消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我のみが残る。これは、ヴィチャーラ・マールガ(探求の道)またはジニャーナ・マールガ(知恵の道)と呼ばれる。この探求は、常に自らが真我であることに気づくために行うものであり、新たに真我を作りだしたり、真我を獲得するということではない。ただ、真我を覆い隠している障害物である「私とは肉体である」という思いを核とする様々な思いを除くだけである。*5
僕が漠然と思っていた考えを理論化していたのは彼でした。僕はこの人の生涯がまとめられたDVDをみたりして不二一元論の考えを深めていきます。他にも、同じ不二一元論者であるムージの本、マハラジの本も参考になりました。
さらにヒンドゥー教の聖典バガヴァッド・ギーターを読むようになり、この教えが僕に合っていると感じました。なぜなら、在家のままで悟れると記されているからです。
マハルシも、学びに来る人に対して出家しろなどは言わず、むしろ自分に与えられた仕事を全うするよう言いました。
こうして有神論者になる
僕は仕事をしながら教えに触れていました。自分の神秘体験は科学的に言えば脳の錯覚などに過ぎない事はわかっています。 ですが、僕に言わせれば世界すら幻覚なのです。それを考えた時、神すら僕が認識しないと存在しないと思いました。
「だったら、神を信じた方が面白いんじゃないか?」
神様の為に生きようと思いました。今でもニヒリストだった頃のように何にも意味はないと思っていますが、自分の中で帰依こそ生きる理由と決めました。
あとがき
無神論、不可知論、有神論と経験してきて、今が一番楽しいです。「根拠がないから神はいない」と言い切ってしまうのは簡単ですが、神がいると思った方が面白いので信じ続けています。
語弊が無いように言うと、これは仏教を批判する記事ではありません。僕みたいにインターネットを通じて哲学や宗教に触れる人もいるだろうと思って宗教との出会いを書きました。なので、あなたにとって仏教が好みならそれを否定しません。
*1:
*2:
*3:
*4:
*5:ウィキペディアの執筆者,2018,「ラマナ・マハルシ」『ウィキペディア日本語版』,(2018年3月3日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ラマナ・マハルシ&oldid=67581994).