刺激中毒

今日が命日でもいいように、過去を悔やまず、未来を恐れず、現在を生きる。

落ちこぼれにとって、愚行権の行使が最後の砦。

f:id:juliajewelkali:20210809234637j:image

 

 

おしゃべりとか歌とかパフォーマンスで人々とうまくコミュニケーションができない人は、モノとかイタズラ、そういう“現象”を通じて社会とコミュニケーションするしか方法がない。芸術は、その最後の砦

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/979a0f94d146eae5c75ae8658c5ebd35ed7daa8a

 

 

 最近興味を持っていた大西拓磨さんの発言。共感出来るのは、俺自身がそうだからだと思う。この手法を使って社会と交流してきた。

 

 俺は幼い頃から、所謂空気が読めない人間で、自己中心的だしコミュ障だし、あまつさえ陰キャの極みなので、上手く他人と付き合ってこれなかった。意思疎通が苦手なので、人間関係を上手に構築出来ない。その代わりとして、小学校低学年の頃からブログをやって、他者と意思の伝達を行なってきた。

 

 絵もそうかもしれない。何年か前にスクラッチアートの話を書いたが、あれは小学生の頃に授業でやった奴だ。それがコンクールに出て金賞取ったのが思い出に遺っているので記事にした。

 

 保育園や小学生の頃だと、絵を描く事で周囲が話しかけてくれるので、それが会話のキッカケになっていた。俺は、俺を表現出来た。

 

 文章もそれに当たる。今の俺が人類全体に伝えたい己の思想を吐露して、俺は俺として、自分の人生を謳歌する。前述の通り、小学生の頃から現在の23歳に渡って続けているが、これからも文章を書き続ける。最期にはペンを握って文字を書きながら死にたいくらいだ。

 

 「そんな事をして、何になるの?」

 

 愚行権の行使。俺は、やりたい事をやる。面白かったり楽しかったり、幸せであればそれで良い。

 

 メメントモリカルペディエム座右の銘とした時、白紙のこの物語にどう書き込んでいくか。芸能ニュースや低俗なゲームなんてどうでもよく、自分を着飾ったり、タトゥー入れたりメンズネイルしたり、他人から白い目で見られるような事をしたい。愚かな行為は、俺の人生にとって娯楽で、至福だ。他者の評価より、自分の衝動。結果的に、人生の目的を達成する。

 

 

 昨日、職場の先輩から「君ならフロントも出来るだろう」と言われた。実際にお局のフロントから勧誘されていたが、俺には向いてないと思う。でも、他人にはそう捉えられているみたいだ。彼女は「仕事が出来る奴だと思われたんだろう」と解釈していたが、実際、俺は無能だ。何らかの才能に秀でている人物なら、ラブホテルでフリーターなどやっていない。仮にフロントの仕事が務まったとしても、俺は自分のやりたくない事で成功したくない。

 

 社会的な成功に大した興味関心も無くて、俺は『結果を残す』みたいな言葉が嫌いだ。俺を褒め称える奴は、自身の利益の為、道具として俺を利用する。俺が精神や肉体を擦り減らせば、使い捨てられ、次の奴に出番がまわる。他人の人生に脇役として出演して消費されるなんて御免だ。

 

 あと、俺は自己評価と他者評価が合致してない。上記の件で改めて思った。フロントの件でもそうだが、前、俺に会いたいと言ってきた奴がいた。

 

 

 断った。相手は、「そんなこと言う人だと思わなかった」的な趣旨を言った。どうやら俺は、文章を通じてでも、上手く自己表現が出来ていないみたい。俺は、ブログで自分を表しているつもりだった。俺の言葉が読者全員に理解されるものだとは思っていないし、実際の俺を知っている彼女ですら、記事を読んで誤解する。要は、完全に理解される事などないのだ。

 

 全ての読者に伝わらなくても、誰か1人でも良いから、俺の言葉を咀嚼して飲み込んでいてほしい。人間不信で人嫌いで人見知りとは言うものの、何やかんや言いながら、俺は他人と交流する事を楽しんでいる。自己矛盾に陥りながら、こうして文章を書いているのだ。おかしな話。二面性を持つのが人間。これぞ愚か。

 

 変人でいたい。凡人で死ぬのは嫌だ。落ちこぼれていながら、この愚行を楽しんで、能動的にニヒリズムを生きる。これが、俺の人生。

遺書は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。