オリジナリティへのアンチテーゼと、リアリティの追求
Fukaseカッコ良すぎて草
どうも皆さんこんにちは。
バイトのギャルにこの映画観たって報告したら、「Fukaseに似てますよね」って言われてちょっと嬉しかった、お世辞を理解してない系ブロガー、ビッグボーイです❕(彼女に怒られる〜😱)
さて、この映画で俳優業に初めて手を出したFukaseですが、その演技がとても素晴らしくて感動しました。適役とは正にこの事です。
この映画を見てもらえればわかるんですが、ボソボソとした発声を全ての役者さんがしていて、全体的にセリフの声が小さく、聞き取りにくい所すらあります。
冒頭、菅田将暉演じる山城が、描いた漫画を持ち込む際、出版社に「リアリティが無い」と一蹴される場面があります。これは話の中で重要になってくる点ですが、これを始めに持ってくる辺り、「この映画はリアリティを重視します」と観客に宣言しているようなものです。なので、視聴者に解説する為のセリフも用意されていません。流れの説明は必要最低限。一瞬映る新聞の切り抜きや、何気ないセリフから汲み取って、「そういう事だったのか!?」と考えながら鑑賞します。
こういう考察の余地を残した作品は大好きなので、自分のなりの考えを記事にしようと思いました。
その前に、この映画の、作品としての素晴らしさ。
物語が面白いのは勿論の事、映像が綺麗。照明の使い方、色使い。俺は素人だから詳しく語れないけど、そんな奴が見ても伝わる美しさ。
セブンと羊たちの沈黙、踊る大捜査線や冷たい熱帯魚、花束みたいな恋をした、など、要所要所に著名な映画からの影響らしきものを感じた。また、Fukase演じる両角。ピンク髪の殺人鬼。部屋に異様な絵が描かれていたりするんだけど、そういうキャラクターの描き方は蜷川実花っぽいなって感じた。
この映画は『実際に起きた殺人を元に漫画を描いたら、さらにそれを模倣殺人する事件が起きた』って話。パクリのパクリ。
つまり、『オリジナリティとは何ぞや?』ってのを観客に考えさせる作品。
人は誰しも、今まで歩んできた人生の中で、様々なものに影響を受けて生きている。パクリパクられ、そこからまた新しいものが生まれる。例えば、筆者は幾多数多のパクリで出来てるけど、俺が唯一無二である事は火を見るより明らか。
この映画の宣伝で『オリジナルストーリー』という文言が使われてるけど、所々は、意識してるしてないは別にして、何かしら、作品の影響は受けてる。
本当の意味で、オリジナリティというのは、何なんだろうか?
"キャラクター"はどこにあるのか? 感染する殺人衝動
終盤、山城が両角を刺す場面。実は、あそこで初めて山城が笑ったんですよ。菅田将暉の笑顔が見れるのは、ここだけ。
笑いながら刺す。彼女を守る為ではなく、人を殺すのが楽しいからやっている。その様は、冒頭で描かれた『優しい山城』ではなくなっている。
この映画、題名の『キャラクター』が主題となりセリフで多用される。
キャラクターが描けない、善人な山城。キャラクターが無い、悪人な両角。
相反する2人だけど、山城が『幸せな家庭』のスケッチをする際に選んだ家は、両角が選んだ家と同じだった。この時点で、2人の感性が同一である事を表している。
両角が山城に対して、「先生は殺人を楽しんでいる。僕と何が違うの?」的な趣旨を言う。
第1話は、目撃してしまった事件を元にしてるけど、2話からは全部創作な訳で、さらにそれがリアリティを持つから出版社にも受け入れられた。
冒頭の場面、山城は「あいつは優しいから悪人が描けない」的な陰口を言われる場面がある。しかし、両角と出会った事で、内に秘めた猟奇が発現した。山城は変わったんじゃない。隠してた。その事は、主題歌の歌詞からも考察出来る。
山城は両角ありきの存在になり、両角もまた、山城がいないと生きていけない。『キャラクター』が崩壊する。共依存というか、共同制作として、1つのキャラクターを形成していた。その人格は両角であり、山城でもあったし、辺見でもある。
両角が殺人を起こしたキッカケは辺見であると、終盤で明かされる。その辺見も後に両角のファンになって、ここでもパクリパクられの共依存が生まれてるのが面白い。
また、『辺見は両角修一だったのではないか?』という説もある。
両角の家へ行くと、「足が悪くなってから変わった」と母が清田達に話した場面がある。
清田を辺見が滅多刺しにした時、足を引きずりながら辺見は去って行った。『辺見はお金欲しさに戸籍を両角(Fukase)に売った』と考えられる。
その辺見は、なぜ殺人を犯したのか。
「覚えていない」
そう、この映画は『オリジナル』というものが登場しない。
そりゃそうだ。皆、何かしらの影響を受けて生きてるけど、いちいち何がこれとか覚えていない。オリジナルなんて無い。それが、この映画の答え。