幸福とは何ぞや。紀元前から人類は思慮深く、その答えを思い求めてきた。正解の無い、最古にして最新の学問・哲学は、各自が選択したい『答え』を手に取れるようにした。
この記事に詳しく書いたけど、お婆ちゃんが危篤になった。いつだったか、家族はセンシティブな事柄を拒むようになり、「死」から目を逸らしたがった。
「致死率100%」とか「いつ死んでもおかしくない」みたいな表現が、俺は嫌いだ。人類みな死ぬ。それは確定した未来である。SFの理想を現実でもしない限り、不死なんてものは絵空事。
現実を見ろ。死は避けられない現実だ。そして、偏見を持ってはならない。死は決して悲観すべきものではなく、むしろ希望や勇気をくれる。
メメント・モリは、人生という名のストーリーを脚本するのに、良いモチーフだ。明日も命があるという保証なんて無い。今を生きろ。
カルぺ・ディエムを座右の銘にしている俺にとって、ゲームや漫画で暇潰しをしているような、生産性の無い、時間を無駄に消費しているだけの奴等のことは相変わらず嫌いだし、何か1つでも没頭して創作活動しているような、そういった熱量溢れる変人が大好きだ。
音楽好きの人々が歌って踊ってるように、したいこと、夢見てきた事柄に、日々努力している意識高い系が大好き。俺でいうところの、文章を書く事だ。
共同体感覚を持った時、他者に貢献したいと思える。俺が眠気眼で字を書き連ねているのは、22年間生きてきて学んできた事を発信していく日常の中で、誰か一人にでも言葉が届けば良いな、と考えているから。
ただ奴隷のように会社の言いなりとなったり、陰で人の文句を言いながら大切な時間を使い捨てる人間は、生きながらにして死んでいるようなもの。死を目前とした時、彼たち彼女たちは、「素晴らしい人生だった!」と思いながら、死んでいけるのだろうか?
物語の結末を想定して、そこから逆算し、不可逆性の時間に立ち向かっていく。二度と来ない今日に全力を投下して、一瞬一瞬が人生の終結となるように。
俺は俺の人生を生きている。行為ではなく、存在そのものが、俺の、俺だけの、幸福。
「ナルシスト」? 褒め言葉ね、それ。
だって、自己嫌悪に苛まれながら、怪物の様な希死念慮と戦ったり逃れたり、負けてしまう人生なんて、つまらない。俺は俺である事に幸せを感じている。過去の苦痛は、現在の幸福をもたらしてくれた。自分を好きになった方が、人生面白いに決まってんじゃん。
取り返しの付かない日々。終点に向かって、己の道を走り続ける。誰に止められるだろうか?
走れないなら歩け。歩けないなら、這ってでも前へ進め。立ち止まってタイムオーバーなんて、俺は御免だね。
毎日、今日死ぬと思って生きてる。誰かは俺の良しとするし、誰かは俺を悪しと言う。俺は気にしない。でも、アナタはどうする?