『無知のベール』をかぶって考えてみよう【思考実験】

お題「最近知った言葉」

 

正義とは何か

 

誰しも一度は考えた事のある問題かもしれません。しかし、大抵の人はそれに答えを見いだせないまま、自然と消滅させ、あるいは目を逸らしながら生きているでしょう。

 

今日だけは、この問題に直面してください

 

 

 

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『自由』の定義。そして「正しさ」とは何か

 

 この問題について思慮を巡らす時、無意識のうちに自分の環境や経験などから導き出された意見を持ちがちです。しかし、そのような考えから生み出された答えが実現したとすれば、異なる状況に置かれている人にとって、「正しい」とは言えない意見になってしまいます。

 

 ついこないだも、フェミニスト献血ポスターに対する問題提起をツイートし、マスメディアやSNSはてな内でも論争に発展していました。

 

 フェミニスト側の意見を、「女性を物扱いをせず、人間として尊重してほしい」という風に捉えました。

 

 それに対し、「表現の自由を否定している」というものがありますが、「自由だからといって性的搾取が許されて良いのか?」という反論の余地があります。しかし、恐らくこう返ってくることでしょう。というか、大体こんな感じのツイートを散見した。

 

 「あくまで巨乳の一個人を描いているだけで、それは必ずしも性的搾取ではないし、そういう意見を発するフェミニストこそ『巨乳=エロ』と捉えているのではないか」

 

 要はフェミニスト側がダブルスタンダードであると、矛盾を指摘している訳です。また、こういった意見もありました。「この絵は服を着ているのに対し、下着の広告には生身の女性が用いられているではないか。こっちは問題ないというのか」

 

 フェミニスト献血ポスターを「巨乳を強調してる。セクハラではないか」と主張しているのに対し、下着の広告は商品をPRしているだけで、何も女性そのものを物扱いしているのではない。彼女達が問題提起しているのはそこじゃない。つまりは、件の献血ポスターがダメだからといって、下着の広告までダメとはならない。

 

女性が肌の露出の多い衣服を着たりすることは、かつては「女のくせに恥かしい」「たしなみが無い」と非難され、「ちゃんとした」格好をするよう少女のころから女性たちはしつけられてきた。これは女性の身体を勝手に性的にまなざすがゆえのことにほかならず、女性から性的主体性を奪ってきた。

 

女性が自らの身体を愛し、可愛かったりかっこよかったりする下着を凛とした表情で身につけて堂々としているポスターはまさに女性の性の主体性の回復だ。これがくだんの献血ポスターと同じに見えるとは、そんな区別もつかないのかと呆れたくなる*1

 

  引用元のブクマに「問題だと思うから問題なんだよ」みたいな文言があった。誤解を生みそうなコメントだと思うし、これを書いた人と同じ思考かはわからないけど、確かに賛同できる。

 

 例えば俺の事を「エロい」と思っている人が居ても、何ら問題はない。脳内で好きな妄想をしてりゃいい。でも、そのような想いから俺へ危害を加えるようなら、ここにきてようやく問題だと思うんだ。わかるかな。俺の言いたい事が上手く表現できているか自信ないけど。

 

 要は、冒頭で出てきた表現の自由に繋がる。

 

 俺が思うに、自由とは他人に危害を加えない限りの事。何が言いたいかというと、宇崎ちゃんのファンは漫画を楽しんでいるだけで、女性へ危害を加えていない。だから、「なくせ」という主張にまで発展するなら、コンテンツを楽しんでいたファンや作者の自由を傷つけるように思う。

 

 例えば包丁を使った犯罪が度々起きているけど、だからといって「包丁そのものを排除すべきだ」というのは極端すぎる言い分。包丁は調理に使うもので、これを犯罪行為に使う奴が悪い。言わずもがな、宇崎ちゃんという漫画は娯楽な訳で、包丁と違って犯罪にまで発展するもんじゃない。端的に言うと、物自体は悪じゃないんだ。

 

 

 もう一点言われていること。というか特に強調されてた部分。「これは公共の場に相応しいのか」

 

 正直いうと、胸云々より台詞が不愉快だった。何らかの事情があって献血に行けない人や、注射が怖くて行けない人などを煽っているような感じで。思考は十人十色で好きにしたらいいとは思うんだけど、ポスターに相応しいかと問われると首を縦に振れない。

 

 また、この件で度々用いられた単語、『意図』。要は、作者が何で宇崎ちゃんを巨乳にしたのかというところ。もしエロい意図で描いたのなら、フェミニストが今以上に怒るであろう。「そんなものを公共の場に貼りだして良いのか!」

 

 だが、この点については悪魔の証明になる訳で、「こういう意図があったに違いない」と憶測で物を言うのは良くないと思う。

 

 あと今回の騒動で再確認したのが、『自由=正しい』とは限らないってこと。

 

 じゃあどうするべきだったのか。ここで俺が提案するのが『無知のベール』である。

 

正義の思考実験

 

例え話のつもりが、割と長くなってしまったな

 

 正直言うと、上記の論争ではどちらの意見にも頷いてしまう。逆に双方の物言いを不愉快に思うところもある。極端な言い方や汚い言葉を用いて。結局の所、約一か月経ったところで解決策みたいなものが生み出されていない。「そもそも問題なのか」という論調もあるくらいだ。忘れられて自然消滅、という流れを待っている方すらいるかもしれない。

 

 どちらも、相手の意見を受け入れるつもりがないか、出来るだけ自分の主張を押し通したいはずだ。フェミニストは「女性を守りたい」として争っているはずだし、オタクは自身が愛するコンテンツを守りたくて戦っている。一歩も譲りたくはないだろう。という事で、一旦整理する。

 

 前者の主義思想は言うまでもないので、オタクの意見についてまとめておこう。彼らは『自由』を主張する。この議論で特に出てきたのが「表現の自由」だな。あくまで俺の解釈だが、「他人に迷惑をかけていないんだから好きにしてもいいだろ」と言っているように思える。逆にフェミニストが俺らに迷惑をかけているんだ、と言わんばかりに。

 

 だがしかし、無知のベールに包まれたらどうなるかな。

 

 無知のベールとは、自分や他人について何も知らないと仮定して、どういう社会を目指していくべきか考える思考実験だ。

 

 生まれや育ち、肌や目の色、健康か否か、性別――あらゆるアイデンティティをお互いに捨てて考える時、双方が納得する判断が下せるのではないか?と提唱する。

 

 自分の事柄を忘却してしまって、その上相手が何者なのかも知らない。でも、議論を交わさなければならない状況。議題は『理想の社会』らしい。あなたはこう考えるであろう。

 

 「ベールを取れば、漫画好きなのかもしれない。だとすれば、好き好んでいるコンテンツを積極的に否定されたら嫌だろう。あまつさえ、排除しようという姿勢までみせられていたら・・・」

 

 「ベールを取ったら、胸の大きな女性かもしれない。だとしたら、それを物扱い・商品化するコンテンツを見かけたら、不愉快になるのではないだろうか・・・」

 

 今回の論争を見て思ったのが、どちらも相手の意見を認めようとしない。居たとしても少数派だ。相容れない思想。罵詈雑言が飛び交うほど正反対で、一向に決着はつかない。

 

 はたして、どちらに正義があるだろうか。

 

『無知のベール』への批判

 

マイケル・サンデルが主張するコミュニタリアリズム(共同体論)は、人間はそのコミュニティと関わり生きていて、コミュニティを排除した「無知のベール」は「負荷なき自己」であると批判し、歴史・伝統・文化をふまえた「位置ある自己」が重要であると主張する。普遍的な正義よりも、共同体の絆や美徳の促進による正義の実現を目指す。*2

 

 日本語訳は共同体主義

 

 フェミニストもオタク側も、結局のところ自分達が所属するコミュニティにおいての正義を追求している。お互いがお互いを傷つけ合っているので、いつまで経っても終戦しない。ダブルスタンダード的な行いをして、(フェミとオタクは両立できる!など)終わりどころを探ってそうな人もいるが、結局のところ叩かれてしまっている。

 

 何がそこまで人を駆り立てるのか。なぜポスター一つに、約1ヶ月も言い争いを続けているのか。

 

 コミュニティが自己を形成しているからである。前に投稿した哲学の記事でも触れているが、人の道徳心・倫理観すら、状況によって左右され、一貫性がない。

 

 

juliajewelkali.hatenablog.com

 

 

 同じコンテンツを好き好んでいる者同士でコミュニティが生まれ、それを否定した女性を炎上させてしまう。同じようにフェミニストも女性同士で仲間意識を持って、同じ目的に向かって運動を行う。

 

 だが、彼らも恐らく環境・状況が変われば主義思想を変えてしまう事だろう。それは上の記事で解説している。

 

  俺みたいな自由を重んじている立場からすると、今回の騒動はどちらも間違っていると言わない。だが、そこに『美徳』はあるのだろうか?

 

 どちらもいがみ合っているだけのように見えて、『善』が見当たらない。間違いなく『自由』はあるのだが・・・。

 

 ここで、『共通善』の話をしよう。文字通り、共同体という括りで善と言えるものを指す。この地域社会にとって正しいのか否か。そうやって吟味するのが共同体主義だ。

 

 なぜ、共同体の視点で哲学するのか。俺みたいに個人で思慮を巡らせない理由。それは、「そもそも個人が何で生まれたか」を考えるとすぐに答えが見つかる。

 

 要は、みんな生まれ育った街に育成されてきたんだ。人格・性格も環境によって作られたものだとさっき話した。そのように、自分は自分だけで完結しているんじゃない。独立しておらず、共同体として生きているんだ。これは、肯定しようと否定しようと、事実そうなのである。だから、何事も、共同体にとってどうなのか。そこから考えて『善』を追求する。それが、共同体主義だ。

 

 彼らならこう考えるであろう。

 

 「件の献血ポスターは、この街によって善いものなのだろうか?」

 

参考文献貼っときますね

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

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