最初で最後の、最愛。

忘れよう、朽ちよう。

お題「今日の出来事」

 

 

 

10代の頃

 

 原因ではなく、目的を追い求めるべきだった。

 

 10代の僕は過去を忌み嫌い、未来を恐れ、現実に絶望していた。

 

 今の自分がこんなにも悲惨なのは過ぎ去った出来事に原因があり、それによって厭世観に圧迫されていると。

 

 違う。全くもって間違っていた。

 

 改変できない事象に対する捉え方は、自分自身で決められた。僕は過去へ悲観的に単語を当てはめていた。状況や他人のせいにして自分は悪くないんだと、環境や社会、国が悪いんだ。そういう愚蒙な思考に陥っていたと想起する。

 

 いくら過去を悪く解釈したって事実は変えられない。ようやくそれを受け入れるようになった。

 

 未来を恐れたって明日何が起こるかすらわからないような世界だし、実業家でもない僕がそんな事に思いを馳せたところで不安になるだけだ。

 

 やるべき事はただ一つ。今を生きる。それだけだった。

 

神社へ就職

 

 『中卒・ニート・引きこもり』と三拍子そろった愚れ愚れしき僕。あまつさえ不登校児でもあった。人生が悲劇すぎて、何かすがる物を求め宗教にハマっていた。それについて学んでいる時が楽しかった。

 

 それにより幸運な事に、神社へ就職した。未来への恐怖なんて僕の脳内にだけあった夢幻に過ぎず、本当は幸せだったんだ。今までにないくらい至福な出来事だと周囲に語っている。

 

 なぜ僕はこのような未来を手に入れられたのか。それはやっぱり今を生きる事に集中したからだと思う。今をいかに楽しむかっていうのに熱中して、それを積み重ねたから今の現実があるんだと思う。

 

 そりゃ悲観主義に没頭していたら、生き地獄の未来が待っているに違いなかったんだ。僕はそんな事もわからないくらい視野の狭い状態だった。でも、思考を改めた事で現実も改変された。

 

 僕はこうして自分の人生で学び得た哲学、主義思想と呼べるようなものを神社で唱えている。他の宗教家みたいに師匠から教えてもらった知識じゃないのが特徴。というか、神道にはカリスマや教祖と呼ばれるような者がいないので、細かな思想の違いは先輩との間にある。

 

参拝客との会話

 

 そうやって参拝客(下記で『女性』と呼称)と対話していて、嬉しい事を言われた事がある。

 

 「あなたは私の息子と同じ年なのにちゃんとしてるわね」

 

 ここだけで終わっていればとても喜ばしい褒め言葉ですが、追加された話がちょっと悲しかったというか、共感して傷ついてしまいました。

 

 「うちの子も見習ってほしいくらいよ、ほんとろぐでなしで・・・」

 

 どうやら息子さんは無職かフリーターらしく、定職に就いていないらしい。僕もここで働く前はそうだった訳で、まるで自分が言われているかのような感情に陥りました。

 

 ですが、この会話である事を思いました。女性は『今』で判断してくださっているということ。現在の僕は若くして神社に勤めた身で、そこを評価してくださいました。だからこそ息子さんの事を悪く言ったんでしょうが、僕的にはまだ未来に希望はあると思うんです。

 

 それは、僕もそうだったから。今を生き続けていれば、幸福な人生が待っているはずだと今の僕なら言えます。

 

 ただ、そう話す事が出来るだけであり、それにより息子さんの人生へ大きな変化をもたらす事を保証するものではありません。

 

 なぜなら、決断するのは本人だからです。

 

 僕の場合、周囲からどれほど登校を勧められたり労働を促されたりしたところで僕自身に意欲がない為、家から出なかった訳です。それと同様に、どれほど「今を生きろ」と他人へ言ったところで本人が同意しなければそのような生きざまになりません。

 

他者の課題と自分の課題を切り離す

 

 上記の会話を人様へ偉そうに自己啓発じみた表現で話すとしたら、このような言い表しになります。

 

 他者の問題に口を出したとして聞き入れる、受け入れるかどうかは本人次第です。冷酷な表現と思われるかもしれませんが、『他人へ期待しない』という選択肢も一つとしてある訳で、頭の片隅にでも置いておくべきだと思います。僕はそのようにして生きてきました。

 

 他人に降りかかった問題へ介入している暇があったら、自分の人生をいかに生きるべきか試行錯誤すべきだと学びました。

 

仲間を持たない

 

 このブログで何度か書いている通り、僕はあまり多くの人と関係を持ったりしません。

 

 僕の電話番号を知り得た人も、2ケタいかない位だと思います。それくらい関わる人の数が少ないんです。

 

 そうやって生きていると流行の言葉やお笑い、話題の人物といったものも知りません。テレビは視聴しないどころか持っていませんので。

 

 ニュース番組、ワイドショーを見ていると不愉快な情報や嫌悪感を抱く言葉がとめどなく垂れ流されてきますので、目や耳に入れないようにしている訳です。それと同じく、『知人』と呼べる人も少なくしています。

 

 学生時代に青春と呼べるような輝かしく美しい思い出などありませんので、お互い名前を呼び合う様な関係の人はみな、仕事関係の人です。その中でもごく一部の人とだけ接しているのは、少なからず自分なりの考えを持っている方です。仕事論や哲学とか。

 

 『周りに流されて今の自分があります』みたいな人へ僕は名乗りもしませんので。

 

 そういった人達を否定したい訳ではありませんが、僕と会話したところで友好的になれるとは思えません。向こうからしてもそうでしょう。

 

 このような生き方をしている事で善意の説得を何度か受けた事あるのですが、未だこの現状です。今のところ変更する予定はございませんのであしからず。

 

誰もお前のことなど気にしていない

 

 上記のような人生を歩んでいれば、度々言われる表現です。宗教的思想により『気』という言葉へ嫌悪感を抱くのですが、このような言い回し自体も僕は厭悪します。

 

 そんな事、言われなくても解かっているからです。だからこそ出来る生き方でもあります。僕は承認欲求よりも自分の意欲を優先して行動してきていますので、他者からの評価はそれほど重要視していません。

 

 別に褒められたものではないと解っていますし、それがいかなる末路を辿るかもご想像の通りかと思います。それでも僕がこの思考を体現しているのは、楽な道を選択し続けてきた結果であります。極力、そうしてきた訳です。

 

 苦労は買ってでもすべきだというのなら売りますけど、いくらで買いますか?

 

どうせ死ぬのになぜ生きるのか?

 

 この問題が小学生くらいからずっと謎であり、自分なりに答えを求めてきました。僕は神社で働く宗教家な訳ですが、誰かの考えを鵜呑みにしてここまで来たのではなく、自らの経験、体験によって導き出した真理があり、それを受け入れてここまで到達しました。

 

 「またこの話か」と思われるかもしれませんが、僕は消極的ニヒリズムに押しつぶされて自殺未遂をした身でありますので、その時に遇った神秘体験によりこういう人生を歩む決断をしました。

 

 前までの僕はその時に死んだ。そう言い聞かせて。

 

 死ぬ事実は決定しているのだから、それまでの間は人生の主人公として、主役として、内なる声に従いながら歩みを進めて行こうと考えた訳です。この道を共に闊歩してくれる人はもちろん居ませんが。

 

 

最後に

 

 なぜか解かりませんがあまりにも暇なので自分語りをさせてもらいました。僕の人生について。

 

 この記事を書いているのは5月13日なんですが、過去の記事を読み返していたら恥ずかしくなったので100個近くの記事をまとめて削除しました。文体とか表現とか結構変えていく人なので、昔の文章がつまらなく思えてしまうからです。

 

 なので、そこで書いていたような事をまとめて一つの記事にしてみました。これに対しても後々羞恥心を抱くようになれば削除される事でしょう。深夜に書いていますので、夜中のテンションですし(笑)

 

 さて、ここまでの長文をちゃんと最初から読んでくださった方はいらっしゃるのでしょうか?

 

 もし居ましたら余程の暇人だと感じるのですが。

 

 

『孤立』

 

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