刺激中毒

今日が命日でもいいように、過去を悔やまず、未来を恐れず、現在を生きる。

臓器売買と安楽死の哲学

 

リバタリアニズム(自由至上主義)の概念に、自己所有権というものがある。

 


自分の体・命は自分のもので、それが他人へ危害を及ぼすものでないのであれば、自由に扱っていいとする、個人の権利だ。

 


あなたの体は誰の物か?

 


この問いには、おそらく大勢の者が「私の物」と答えるであろう。だとするならば、臓器売買をするか否かも個人の自由ではないだろうか?

 


ここで、とある思考実験をしてみよう。

 


ある貧しい暮らしをする男が居たとする。その男には娘がいて、大学へ進学したいと言っているが、世帯収入を考えると難しい。そこで、自分の片腕を金持ちに売ることにより、学費を賄おうと決めた。

 


他人や政府は、男の決断を否定できるのだろうか?

 


もし男の選択を阻害してよいのであれば、自己所有権の侵害である。

 


ここでは、臓器くじと呼ばれる有名な思考実験が参考になる。臓器提供を求める5人の為に、くじで選ばれた健康体の1人を犠牲にしてよいのか?というものだ。

 


選ばれた者が確実に死ぬとして、もしあなたがその立場になったとしたら、理屈抜きで拒否感を示すであろう。

 


いくら公平なくじ引きで決められたとしても、大義の為であっても、他人の所有物を奪い取ってはならない。

 


そして、この話を進めると安楽死の話題になる。スイスやオランダ、アメリカのいくつかの州などでは、他人による安楽死尊厳死が合法化されているが、上記の視点から考えれば納得だし、支持できるものだ。

 


ここで考えてみよう。

 


あなたは自分の命をどう扱うか?

遺書は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。