比叡山で修行したので、学んできた事をまとめます!

お題「今日の出来事」

 

 今日、いつもの様に神社へ出勤した途端に菩提樹*1の木の実で作られたブレスレットが切れたんですよ。何か宗教的な意味があると思いたいので、これは何かの転機なのかなあ?と考えました。ちょうど比叡山での修行を終えた後ですし、そこで教えてもらった事をここに記します。

 

 

 

 

宗教との出会い

 

 おじいちゃんが熱心な仏教徒で、おばあちゃんも朝食前にお経を読む、母親は巫女など、宗教的な家庭で育ちました。僕が働いている神社も、親子三代にわたって勤めさせてもらっています。

 

 しかし、幼い頃は神仏を信じていませんでした。でもこういう家族の元で育ったので宗教に興味を持つようになり、まずは世界一有名な宗教、キリスト教を知ることにしました。僕が訊いた牧師さんは「この教えを信じないと救われない」と言いました。僕はこういう排他的な考えが嫌いなのでキリスト教に対しても否定的になりました。

 

 でも僕はなんやかんやあり、どこの信者という訳はないですが、有神論者になります。その経緯は別の記事に書きましたので読んでもらえると嬉しいです。

 

 

juliajewelkali.hatenablog.com

 

 

 で、この考えを深めたいという思いから宗教の本を読むうちに出会ったのがラマナ・マハルシバガヴァット・ギーターです。アドヴァイタにとてつもない魅力を感じた僕は、この思想に深く共感しました。そして、二元論ではないという点で共通する仏教、特に禅に興味が湧いてきた訳です。そして、いつの間にか「多神教こそ真理だ、一神教なんて幼稚な思想だ」と思うようになりました。そんな考えを持っている時に出会ったのが天台宗です。

 

 

 

一隅を照らす

 

ichigu.net

 

 

 森清範さん*2の説法を比叡山で聴く機会がありました。その時に知ったのがこの言葉。

 

 自分の足元だけでも明るくしようという人が増えれば、自ずと世界は平和になる

 

 それを聴いて、曹洞宗のお坊さんが「過去は過ぎ去って取り返しがつかないんだから考えても仕方ない。未来は未だ来てないんだから心配しても仕方ない。今できる事をしろ」と仰っていたのを思い出しました。

 

 心のつどいin比叡山*3で行われた座談会で、とある参加者の方に「一隅を照らすという言葉を知ってから、自分に出来る事をしているが、他人に嫉妬される」と仰っている人がいました。なぜか年下である僕に「どうしたらいいと思う?」と訊いてきたのです。

 

 その悩みを聞いた瞬間、上に書いた2つの説法が繋がりました。そして、自分でも驚くように自然と口から言葉が出たのです。

 

 

 「どこの誰がどう言おうと、自分が出来る事をするしかないと思います。善悪なんて個人の主観ですから。自分が出来る善行をし続けるしかないと思いますよ。視界にうつる全てが神であり仏なので、自分に対して嫌な事をしてくる人も、それなんです。神仏から与えられた試練だと僕は解釈しています。『怒ったり、悔しいと思っているようじゃまだまだ煩悩の塊だな』って思われるんじゃないですか?

 だから、いま自分が出来る最善を尽くすしかありません。僕が思うに一隅を照らすってこういう事じゃないかなあと思ってます。あと、結果を目的をすると悪い事が起きがちですが、行為を目的にすれば、自然と良い結果が舞い込んでくると20年間生きてきて知りました」

 

 

 僕の倍以上生きている人の悩みに答えるなんて偉そうですが、僕が言える事だけ話させてもらいました。

 

 このブログでは何回も書いていますが、僕は中卒ニートでした。家にこもってアニメを見たりゲームをし続けるだけのトウヘンボクを経験した上で、今は神仏に祈り、感謝しながら生きています。僕は神仏の為に生きるのが人生だと本当に思っています。なので、そう想いながら行動をするべきだと言わせてもらいました。この事を書いたのが下記の記事です。

 

 

juliajewelkali.hatenablog.com

 

 

比叡山のお坊さんに教えてもらった事

 

 ここに置かれている仏像を紹介されている時、神道ヒンドゥー教などの神も祀っているという話をされていました。天台宗では宗教の垣根を越えて、全ての神に祈りをささげると仰っていました。僕はその言葉に、ものすごく感動しました。そして、多神教こそ至高と思っていた自分が情けなく思えました。

 

 比叡山の方は、例えクリスチャンであっても否定しません。現に、比叡山では宗教サミット*4が行われてます。宗教ごとに教えが違いますが、平和を目指すという点では同じです。だから、手と手を取ってお互いに認め合い、そして協力し合うべきだという趣旨を仰っていました。これを慈悲と言わずになんというのでしょう?

 

 

 だから僕は今までの考えを改める事にしました。僕が出会った牧師さんが原理主義者だっただけで、宗教サミットに参加されている宗教的指導者の方は、他の宗教に関して寛容です。僕も神社に勤める者として、こうあるべきだと思いました。

 

 目的地へ向かうのに車を使う人もいれば電車で行く人もいます。向かう先は同じなら、否定する必要なんてなかったのです。その事を教えて下さった天台宗のお坊さんに感謝します。

 

 ヒンドゥー教の有名な聖者、ラーマ・クリシュナの思想に、下記のようなものがあります。

 

 

世の中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて現れたもので、各々が意義を持つ。究極の一に至るために人は自分に合った道を行けばよいという。 彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って下さる」という喩えを用いている。子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作るということである。

 

神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。*5

 

 

 天台宗のお坊さんも、こういう考えを持っていらっしゃるんですよね。僕が信仰している不二一元論だって言わばアニミズムですが、究極的には一神教です。なのにキリスト教を否定するなんて、あまりにも幼稚すぎました。

 

 ラマナ・マハルシだって、このような考えを持っていました。

 

他の修行の道を否定せず、自身が最も行いやすいと感じる修行をすればよいといい、様々な修行にも寛容な態度をとった。*6

 

 

 

 自分がどれほど未熟者かを教えられました。比叡山での一泊二日は、とても大切なものを学んだ時間です。ありがとうございました。

 

 

 

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