(^q^)

 

(^q^)「私は障害者ではない。障害は体や心ではなく環境にあるという人もいるが、そう思わない。その環境を作ったのはその人自身だ。なぜなら、世界を作っているのは私だから」

マッマ「何を言っているの!? 神様にでもなったつもり!?」

(^q^)「もし違うというのなら、思い込みを捨て、決めつける事なく『私』について説明してくれ。障害者の私はどこにいるだろう?

 デカルトの如く全てを疑え。唯一見つかる答えは『私は存在する』という事だけだ。ソクラテスは『汝自身を知れ』と言ったらしいが、世界に関する何やかんやだけでなく『私』について知らない事も言っていたのかもな。要は、今まで自分が思い込んでいた『私』など存在せんという事だよ。これが無我だ」

マッマ「心が私じゃないとでも言うの!?」

(^q^)「そうだ。心が自分である確証なんて無いんだからな。だから、心が思い込んだり決めつけたりする事で生まれるこの世界なんて夢幻に過ぎないんだ。障害なんていうのも幻想。瞑想してみろ。心が何かしら感じているのがわかるだろう。その心を傍観している者は誰だ?」

マッマ「・・・意識?」

(^q^)「そうだ。意識が在るから心が有り、心が有るから世界も存在して見えるのだ」

マッマ「じゃあ、幸福も苦痛もママが生み出したと言うの?」

(^q^)「その通り。悲観主義者として生きる位なら楽観主義の方が良いとは思わないかい?」

マッマ「でもその楽っていう感情だって幻影なんでしょ。むなしいよ」

(^q^)「むなしみさえ心が生み出している。心ですら意識がないと存在しえないんだから、世界をどう認識するか考え直した方が良い」

マッマ「なんでそう言い切れるの?」

(^q^)「意識がない時に世界が存在すると、どうして言えるだろうか?」

マッマ「例えばママが寝ている間に世界が存在するのは、カメラを使えば証明出来るでしょ」

(^q^)「そのカメラの映像を見るのは誰だ?」

マッマ「・・・ぐぬぬ

(^q^)「私が存在するという事は、意識こそ本当の私である事を意味する。ヒンドゥー教の言葉で言えば真我だ。なのになぜ頑なに自分が世界を生み出している事を認めたくない?」

マッマ「だって、それだとたかしちゃんは存在しない事になる――」

(^q^)「全てを生み出すのは意識だから、俺が存在すると思うならそうなんだろう。でも俺は『意識だけが実在だ』と言った。意識によってこの世界が生まれたのなら、夢は見る者の一部であるように、世界も意識の一部と考えられる。だから、世界も存在すると捉えられるのだ。

 世界は夢幻で真我だけが存在すると考えるか、真我が実在なら世界も存在すると考えるかは聴く者次第だ。つまり、世界は存在しているともしていないとも断言出来ない。仏教の言葉で言えばである」

マッマ「このあいだ、お坊さんが『何をする時も仏様が見ていらっしゃる』と言っていたわ。仏様は真我なのね?」

(^q^)「そう。大乗仏教仏性について語るのは、アドヴァイタの聖者が真我について話す時と同じ。世界に真我が内在すると教える様に、仏陀だって世界に仏が宿っていると言うのだよ。でも包括する様に真我や仏が在る事も忘れてはならない。もっと言えば、世界は真我そのもの。言い代えればこの世は仏なんだ。梵我一如とはこの事である」

マッマ「肩の荷が下りて楽になったわ」

 

 

 

(-q-)「zzz」

マッマ「朝ごはんよー! 起きなさーい!」

(^q^)!

(^q^)「・・・」テクテク(無我を教義とする仏教が、矛盾して慈悲を唱えるのは、暗に仏を大切にしろと伝えているのかもしれない)

(^q^)「あうあうあー」モグモグ(朝食に甘いスクランブルエッグとちょっとの塩をかけたベーコンを食べる。肉食を否定する人の理屈はわかるが、輪廻転生をする人が存在しないように、自業自得の報いを受ける人だって存在しないのだ)

(^q^)「ぱしへろんだす」(『私は存在する』という想念から森羅万象が生み出されている。神ですら私がいないと存在しない。つまり、真我は死なない。なぜなら生まれていないからだ。これは神を否定しているのではなく、むしろ信じた方が人生を楽に生きられるというのだから、不二一元論は有神論的虚無主義だと考えられる)

お題「最近見た夢」

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