その場で出来る自分探し

お題「ひとりの時間の過ごし方」

 

 己の存在は海を渡った所にあるのではないんですよ!

 

 ラマナマハルシ

「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨した。肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の根源を探求することで、「私」が根源である真我に溶け込み、消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我のみが残る。*1

 

 本当の貴方が誰か、貴方自身が知っているはずです。他人にレッテル張りをされても「それは私ではない」と思えるように、いわゆる自分探しをして「これが私だ!」と言えるように、自分が何かを決めるのは自分だからです。でも、僕は旅行で自分を見つける必要はないと思います。

  道具の要らない方法として、瞑想があります。これは仏教ヒンドゥー教、宗派によってはキリスト教も用いるそうです。

 

 「私は何か?」

 

 この問いにだけ集中するのです。

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 なぜか、はてなには瞑想に否定的な人がいます。これを読んでいる人の中にもいるかもしれません。もしそうであれば、無理にする必要はありません。

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 エックハルト・トール

私は、もうそれ以上自分自身と生きることが出来なかった。そして、答えのない疑問が生じた。自分と生きることが出来ないこの「私」は、一体誰なんだ? 自分とは何だ? 私は虚空へと吸い込まれるように感じた。その時は、一体何が起こったのか知らなかったが、満たされない過去と恐ろしい未来との間に生きている、思考が作り出した自我が、その重苦しさ、その抱える問題と共に、崩壊したのだ。翌朝、目が覚めてみると、すべてが実に穏やかだった。この平安は、自我がそこに無かったために現れたのだ。ただ存在の感覚のみ、あるいは「在ること」、ただ観察し見守っているだけだ。*2

 

 自分探しをしようなんて思い立つ人は、世の中に不安や迷いがあるのでしょう。それから逃げたり立ち向かうために『私』を探そうとするのは良い事です。

 

 その前に考えてください。貴方が苦しむのはなぜか。それは貴方が思い込んでいるからです。嫉妬や憤怒もそうです。自分の期待通りにいかないから生まれる感情なのです。いい加減わかってください。世界は貴方の思い通りにはいきません。もっと言えば、貴方が色んな事を思い込むから世界がそう見えています。悲観主義者には汚い世界が見えているでしょうし、楽観主義者には逆の事が言えます。世界を創っているのは貴方なんです。心の持ちようで世界が変わります。

 

 そして次の問いです。「私は何か?」

 貴方は心ですか? 体ですか? または、そのどちらでもありますか?

 だとしたら、貴方は変化し続ける存在ですが、いつまでか貴方なんでしょう?

 言い代えるなら、いつ貴方は生まれたのでしょうか?

 「母親のお腹」という人がいますが、どの瞬間から母親ではなく貴方になったんでしょう?

 もっと問うなら、いつ貴方は死ぬんでしょうか?

 

 変化し続ける貴方が貴方でなくなる時はどの時なんでしょうか。変わりゆく存在が貴方なら、火葬された時に生まれる煙も貴方のはずです。そしてそれが雲の一部になり雨となり、土の栄養となって草木に吸い取られるのです。さらに言えば、草を食べる動物、それを食べる肉食動物だって貴方です。そして、肉を食う人のも貴方。人の栄養となり、またその人も焼かれるのですが、まだ貴方のままです。「ここまでが私で、そっちは他人」と境界線を決めつけても、それは思い込みです。

 

 勘違いされる事がありますが、これは輪廻転生を肯定する理屈ではありません。その思想は沢山の自我を肯定した上での話ですが、僕はそう思いません。他人が存在すると証明出来る人なんてどこにいるでしょうか?

 

 思い出してほしいのですが、僕は貴方へ思い込まないよう勧めているのです。「私は何か?」と考えた時に出る答えのいくつかは貴方が勝手に決めつけたものです。自分が思い込んでいないか、疑ってください。

 

一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である*3

 

 この世界で唯一言える事は「私が存在する」という事だけです。苦悩など貴方ではありません。心も体も貴方ではないのです。

 

 要は、貴方がこの世界を創りだし、それを傍観しているのです。行為者ではありません。貴方は意識です。

 

 梵我一如

梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。*4

 

 世界がの見ている夢幻だとしたら、四苦八苦も存在しないのです。因果応報もなく、世界にあるのは結果だけ。もっと言えば世界は意識そのもの

 幻覚などの類である世界が何であろうと、そんな物に囚われているのは馬鹿らしい訳です。苦しむのは心であって、意識である貴方ではありません。貴方は心が苦しんでいるという事を見つめ続けているのです。これが瞑想であり、自分探しの答えです。

 

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