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2016/10/19/本当に、心の性別はあるのか?

  ない。絶対にない。体に性別があるのは子供でも判る。では、心の性別についてはどうだ? 大人は知っているのだろうか?

クィア理論

異性愛中心主義の社会において、抑圧されたり、弾劾されたり、無視されてきた多様な性を生きる者が連帯するための画期的な理論として受け入れられた。具体的には、性的なアイデンティティ脱構築的な手法で考えることで、異性愛と非異性愛という二項対立について再考することで、規範的な性やセクシュアル・アイデンティティにおける同一性を問い始めた。また、ヘテロセクシュアル内にも、様々な性のありようはあり、常態、あるいは規範に対する「変態(クィア)」という概念が取り入れられたことにより、性は個人的なことであるという言説に対して、異性愛中心主義として公的に構築さえてきたかもしれないという、アイデンティティの政治(アイデンティティ・ポリティクス)にも影響を与えた。また、ゲイやレズビアンを代表、表象できるのかといった問題についてもクィア理論は影響を与えた。*1

 体と心の性別が違う人は、男性として、あるいは女性として生きる。両方の人だっている。でも、僕にはそれが出来ない。否定する訳じゃない。そういう人生を楽しんでいるのは良いと思う。

 

 でも、男らしさ、女らしさとは何だろうか。『こう行動する事が、この性別の人がやる事である』っていう思い込みの元、動いていると思う。

 

 例えば僕の体は男だけど、「女っぽい」と言われることも「男らしい」と言われる事がある。理解できない。

 

 僕には、男として生きる事がどういう事なのかわからない。今はしてないけど、男性物の服を着る事もあれば女性物の服を着て生活する事があった。言葉遣いも。おかしいって言われたけど、たかが性器の違いで服装や言葉も違わなければならないという考えが理解できない。食べ物や見ているアニメまで「女の物」というだけで罵られた。でも、僕は一度も男だって言っていないはずだ。

 

 僕を男だ女だレッテル張りする人がいるけど、そのどちらでもない。心の性別が有るとする人たちには、僕には見えない境界線の元、しょうもない枠組みに押し入れようとするけど、やめてほしい。だって、心に性別は必要?

 この質問に「いいえ」と言えるから、こういう言動を行ってきている。他人にああだこうだ決めつけられても、僕に心の性別はないし、あるとしても男女どちらでもないと思う。だから言葉遣いも服装も男女兼用にしている。顔で勝手に男性だと決めつけられる事はあるけど、整形するつもりはない。公衆便所だって男の方を使うし。

Xジェンダー

無性(A)とは、自分は男でも女でもなく、性自認が揺れ動いたりもしない、自分の当てはまる性別はないと認識している人の、ジェンダーアイデンティティのことを言う。*2

 ここで「Xらしさ」を持ち出そうとしないでほしい。Xの中には体の性別も変える人がいるけど、僕は興味ない。『第3の性らしさ』みたいなものをトランスジェンダーに押し付けられても迷惑だ。

 僕は、この性自認で落ち着いている。

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 そもそも、心なんて在るのかな。性別の話題から外れるかもしれないけど、心の性別がどうのこうのというなら、心に関する様々な定義が要ると思う。

 「私は女である」とか言うなら、その『私』はどこにいるんだろう?

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