「死んで楽になりたい」か?

 

 

juliajewelkali.hatenablog.com

 

 このブコメで「死にたい時に輪廻転生なんて説かれても自殺願望は消えねえだろ!」という趣旨の発言をされました。貴重な意見ありがとうございます。よく考えれば、その通りです。

 「来世でも苦しむ事になろうが、現世の苦しみに耐えられんのだ! 来世に期待して今世では自殺しよう!」ですよね。違うか(笑)

 

 上記の記事では輪廻転生を良しとするような意見を書きましたが、正直、僕の思想では否定的です。あくまでお坊さんの説法に感動しただけ。という事で今回は、僕が宗教や哲学の話題をする時に多用している考えを書いていきます。長くなりますが、短くまとめれば『思い込むな』です。宜しくお願いします。

 

お題「愛用しているもの」

 

 まず、題名にあるような「死んで楽なりたい」みたいな意見をネットサーフィンをしていると見るのですが、おかしいんですよ。その発言をしている人が天国や地獄の存在に肯定的なら、自殺すると地獄行きですよね。楽な世界ではありません。

 逆に、あの世の存在を否定しているなら死後は無ですよね。じゃあ、そこにを感じる人はいません。楽になりたいなら、まずは生きる事からはじめなければなりません。

 

 そのような発言をする人、自殺しようと考えている人は『嫌な事から逃げたい』、『現実が受け入れられない』んですよね。でも考えてください。誰が誰を殺そうとしているのですか?

 

 ここから宗教的な事を言うので嫌悪感を抱く人がいるかもしれませんが、悪しき宗教と違って僕は貴方から一銭もせびりません。組織への勧誘もありません(笑)ただ、疑って考えてほしいだけです。

 

 『私』を殺そうというのですが、そもそもとは何なのでしょうか。心ですか? 体ですか? もしくは両方と言うかもしれません。返答が人によって違うのは不思議ではないでしょうか?

 なぜなら、答えが何であれ、問われた側が勝手に決めつけただけだからです。

 

 例えば、心、体、どちらもがであったとして、それらは変わりゆく存在ですよね。いつまでが貴方なんでしょうか?

 想像してください。貴方は棺桶に入れられて燃やされます。そのとき出た煙は雲と成り雨が降り草木の栄養と成り草食動物に食べられます。それを肉食動物が食べ、その動物達を人が食べます。この人でさえ、貴方のままです。

 「待て! 途中で私はでなくなるよ!」という人がいるかもしれません。それは決めつけではないでしょうか?

 「ここまでが自分、あっちは私ではない」と境界線を引くのは貴方でしょう。

 

 心に何か反応があった時、自分が思い込んでいないかを考えれば、変化し続ける存在というのが誤りだとわかります。今まで貴方が思っていていたは存在しないのです。これが無我です。心に現れる悩みや苦しみ、「死にたい」ですら貴方の一部ではないと理解出来るのです。

 

 ここまでがわかれば自殺願望も無くなると思いますが、深い所まで説明してみます。興味がある方だけ読み進めてください。上記が理解出来なくても「私は誰か?」の自問自答を続けると、いつかは貴方の苦しみを無くします。

 

一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である*1

 

 多くの人は心の中で色んなことを思い込んでいます。それを世界に投影して現実だと思い込んでいるのです。いわば貴方がみている世界は夢幻という事になります。

 楽観主義者には世界が美しくみえていますが、悲観主義者には逆の事が言えます。どうせ決めつけていきるなら、どちらの世界で生きたいですか?

 

 貴方が勝手に思い込んで、その期待に世界が応えなかったから苦悩憤怒が生まれます。そして「死にたい」とすら思うのです。よく考えてみれば馬鹿らしい話です。違いますか?

 

 偉いお坊さんは心が落ち着いています。なぜなら、思い込みを捨てたからです。世界は自分の思い通りにならないと知っているのです。

 じゃあそうなる為に何をしているかというと修行です。僕は苦しみを無くす為に出家しろとは申しません。その場で出来るものがあります。それが瞑想です。どこぞの人みたいに運動をしろとまでは言いません(笑)

 

 「死にたい」が現れた時、自傷行為をするのではなく、そう思っている心を見つめてください。いかなる事が起きても、貴方はそれを見続けるのです。食事中ですら、「私は野菜を食べている」などと見ていてください。

 

 瞑想をしはじめた頃は、世界で起きる事に対して嫌悪感などが生まれ、瞑想の邪魔をするかもしれません。ですが、それに反応してはなりません。怒るなんて絶対にしてはいけません。心を見続けるのです。

 

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 瞑想を続けていれば、下記が理解出来ると思います。例え今はわからなくても、覚えておいてほしいです。

 

 心が世界を生みだしています。そして、その心を意識が見ているのです。世界の一部である体は貴方ではありません。意識が無ければ存在しえない心も、貴方ではありません。もっと言えば、体も心も夢幻です。実在は意識だけです。貴方が見ているから、世界は存在しているように見えるのです。

 

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。*2

 

 ここまでがわかれば、「死にたい」ではなく「は死なない」と言えます。

 

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 僕の言う意識は、ヒンドゥー教のアドヴァイタでいうと『真我』と言い代えられます。これは、本当の私を意味しています。

 

ヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラによって唱えられた学説。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となり[1]、この学説に則る哲学や学派をアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(advaita vedanta)と呼ぶ。*3

 

 真我が理解できれば、貴方は自由に生きられるのです。よく仏教徒がいう因果応報の類も幻覚の一つに過ぎないからです。言い代えれば『自由に生きているをみている』

 苦しむのも自由、笑いながら生きるのも自由。

 

  無我がわかった人にカルマなんてありません。また、徳を積んでどうこうとお坊さんが合うかもしれませんが、その善悪を判断するのは誰でしょう?

 仏様ですか? 確かに「阿弥陀様が常に見ていらっしゃる」という人がいます。その仏こそ意識であり、真我なのです。

 貴方が勝手に思い込んで苦しんでいる事に、仏様は同情しませんよ。わかりますか?

 もう思い悩む必要なんてありません。貴方は他人にどうこう言われようと自分が正しいと思う事だけを突き進んで行けば良いのです。

 

 

youtu.be

 

 どうですか? 楽になりましたか?

 それはさておき、最後まで読んでくれた人はどれ位いるんでしょうか(笑)

 長文を読んでくださってありがとうございます。理解して下さると嬉しいです。

 

*1:ウィキペディアの執筆者,2016,「我思う、ゆえに我あり」『ウィキペディア日本語版』,(2016年7月20日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=我思う、ゆえに我あり&oldid=60494612).

*2:ウィキペディアの執筆者,2016,「梵我一如」『ウィキペディア日本語版』,(2016年1月6日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=梵我一如&oldid=58149213).

*3:ウィキペディアの執筆者,2016,「不二一元論」『ウィキペディア日本語版』,(2016年4月16日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=不二一元論&oldid=59369054).

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