この世の真理は、世界が夢幻って事じゃないかな?

 

 

 
 

あなたの「本当の」姿である。あなたには自分の肉体があり、周囲の風景が存在しているように思えるだろう。しかし、実際にはあなたの肉体など存在せず、あなたが現在進行形で見て感じていると思っている全ての光景、あらゆる感情記憶は、人工の電気信号によって作られた虚像に過ぎない。実際にはあなたは大量の電極を繋がれ水槽に浮かべられた脳であり、現実世界における大脳生理学研究の標本なのだ。*1

 

 

 懐疑主義って面白い。貴方も身の周りにある物すべて疑ってみたらわかる。この世には確かなものだらけ。唯一、存在すると言えるのは、「私は在る」という事だけ。これがデカルトの言う「我思う故に我あり」だと私は解釈している。

 

 自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である*2

 

 これを読んでいる人からしたら、このブログには筆者が居ないという事。人工知能が勝手に文章を書きだしているのかもしれない。他人が、自分のように存在すると、どうして言えよう?

 

哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。*3

 
 「私は在る」事だけが真実で、「私は体である」とか「心である」と思ってはならない。この二つも世界同様、貴方が意識してはじめて存在するかのように見えるものである。これと自分と同一視する事は勧めない。
 「私は今ここに存在する」
 これだけに集中する事を勧める。記憶も貴方のものではない。
 

 ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。*4

 

 この思考実験で疑問に思うのが、そもそも人がいつ生まれたというのか。母親からだというのなら、その母親はどうやって生まれた?

 こうやって辿ると宇宙の起源はどうなのかと疑問になる。無からだというなら、どうやって無から有が生まれるというのか?

 答えなんて出てこないだろう。ならばどうしてそんな不可解なものを信用出来るのか。記憶でも心や体でもなく存在するものが、「私」である。私は私なので、スワンプマンなど存在しない。するとしたら認識した時。それは夢幻の中でのみであろう。有りもしないものに興味を持ったって不毛なだけだ。ほどほどにしよう。

 

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