なぜ無ではなく何かが有るのか?

お題「自由研究」

 

 僕なりの考え

 このような質問はするべきではない。「有る」という言葉を使う時、それは「無い」を肯定した上での表現となるからだ。では、誰が「無い」を証明出来るのか。「有る」だって出来ないだろう。

 目の前に見えるから「有る」という人がいた。ひとまず、五感で感じられるものを「有る」とするなら、それを感じている人は誰なのか? この根本的な質問に答えられないのになぜ先へ進もうとするのか?

 足し算が出来ない人に掛け算は出来ないのである。

 

 「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。*1

 

 過去の記事では何回か書いてるけど、二元論では表現できない何かが哲学の答えだと思う。

 

 有るとも無いとも言えないのなら、この世界は何なのか?

 僕なりに言えば「神の悪戯」。こういう話をhasunohaでしたら「仏教でいう所の『空』だね」って言われた。その空を僕なりに言い換えるなら「有って無いようなもの」になる。無いとは言えないが、有るとも言えない。その事について、下記のリンクで話している。知らなくてもいいけど。

 

存在と精神のすべてが空でありますから、 生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。*2

 

仏教的な解釈で、名曲をもう一度聴きませんか? - 不二庵

神はなぜ苦しみのある世界を創ったのか? - 不二庵

僕は15歳の時、車道に飛び出して臨死体験をしました。 - 不二庵

 

 二元論ではないって、仏教でいうと中道なんだけど、いつからか仏教には納得するような答えがないと考えるようになった。「悟り」に理想がある時点でおかしいと思われるかもしれないけど。

 上記のリンクにも書いてあるんだけど、僕はあくまで臨死体験で感じた、知った、学んだ、そういう事を出来るだけ言葉にしたいので宗教やスピリチュアルを学んでいる。そして、今は不二一元論で落ち着いている。その思想について上手くまとめた文章があったので引用する。

 

この世界で確実に言える事は「自分が存在している」という事と「知覚がある」という事だけ。この世界が存在しているという証拠は何もないし、夢と同じ位の信憑性しかない。夢を見ている間は目が覚めるまでその世界が存在すると信じているし、現実が夢と違うのは生まれてからずっと続いていて一度も目が覚めていないという点だけ。突然目が覚めて「何だ夢か」と気付いてもおかしくはない。*3

 

 閑話休題。「答えは空である」と断言すると、そうでない物の存在を肯定してしまう。二元論者と同じ穴のムジナだ。

 「非有非空」でもない。「非非有非空」でもない。これを延々と続けて、いつ答えがみつかるのか。理解しなければならない。二元論にはこの質問の答えはないと。

 問いがなくなった時、人々はどうなるか。落ち着き、静寂となる。そこに、二元論的な答えはない。言葉の限界を超えた答えしかない質問には、沈黙するしかないのだ。

 

 哲学者ヴィトゲンシュタインにも、「哲学は語りえないものについては沈黙せよ」という有名な言葉がある。このことが言おうとしているのは「哲学」はこれまで「世界のほんとうとは何か」「世界は何であるか」「なぜ生きるのか」という語りえない問いをしてきたが、それは無駄な問いだから、もうやめにしようということです。*4

 

 

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