神はなぜ苦しみのある世界を創ったのか?

お題「自由研究」

  

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 「神様が本当にいるなら、なぜ苦しまないといけないの?」

 こんな事言ってる人がいたような、いないような。俺が言ってたんだっけ(笑)

 

 ふとネットサーフィンをしていたらこんな記事を見つけたので、これに関する話をしたい。

anond.hatelabo.jp

 

 神社へ初詣をし、クリスマスを祝い、除夜の鐘は寺で聞き、ハロウィンには仮装、結婚式は教会、葬式はお坊さんに頼む。

 ほとんどの日本人は宗教に興味なんてないんでしょうな。宗教的な行事も面白がって参加してるだけだろうし。でももし、誰かが上記にあるような質問をするなら、僕だったらこう答える。

 

 そもそも質問の前提がおかしい。

 神がいるなら人を苦しめないと思っているからこのような質問が出るのだろう。

 僕が思うに、神は善ではない。二元論の範疇を出ていない存在を神と呼ぶなら、そういう人は、有神論的でありながら苦しみのある世界に居るだろう。でも閉じ込められている訳ではない。

 神に対しては幾多の捉え方がある。それについてラーマクリシュナはこう考えていた。

 

 世の中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて現れたもので、各々が意義を持つ。究極の一に至るために人は自分に合った道を行けばよいという。 彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って下さる」という喩えを用いている。子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作るということである。

神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。*1

 

 神を想い続ける事、考え続ける事が、苦しみをなくす歩みとなる。『神は善ではない』という表現をしたが、それは僕が見た神がそうだっただけで、「神は善である」と考えている人を否定する訳ではない。

 神の捉え方ついて、ラーマクリシュナはこうも教えていた。

 

 それは水のようなものだ。
ひとつの湖に、いくつかの沐浴場(ガ-ト)があるとしよう。 ある場所で水を飲んだヒンズ-教徒は、それを「ジャル」と呼ぶ。別な場所で水を飲んだイスラム教徒は、おなじ水を「パニ」と呼ぶ。そして、また別な場所で水を飲んだキリスト教徒は、「ウオ-タ-」と呼ぶ。 この三種類の呼び名は、ひとつであり、おなじものだ。名前がちがっているだけにすぎない。 おなじように真実を、あるものは「アラ-」と呼び、あるものは「神」と呼び、あるものは「カ-リ-」と呼び、あるものたちは他の名前で呼ぶのである*2

 

 苦は単体では存在しえない。「苦しい」と思っているのは貴方である。そう認識したから在るのだ。なぜそれを神のせいにするのか?

 

 神のみ実在、他のいっさいのものは幻影であることを知らなければ、神への真実の愛を持つことはできない。この世は束の間の存在、ほんの二日しかもたな い、その創造主だけが実在の永遠のものであることを知らなければ、人は神への真の愛を持つことはできない。*3

 

 

 

 仏教の言葉に一切皆苦あるが、その全ての苦しみさえもいつかはなくなるものである。快楽や、愛する人でさえ。

 だから、世俗的なものを重視する愚かさを理解するべきだ。

 

 神は全ての人のうちにいる。しかし全ての人が神のうちにいるわけではない。これが人々の苦しむ理由である。「私」と「神」を分離している無知が「私」を苦しめるのだ。しかし肉体として生きる限り「私」を完全に消すのは難しい。ならばせめてその「私」は神に委ねよとラーマクリシュナは述べる。神に全てを委ね、神を愛するバクティ・ヨーガの道が普通の人間にとっては最も易しい。自己を制して欲望を超越しようとする他のヨーガは強い精神を要する困難なものだ。バクティは意識的に欲望を抑えるのではなく神への愛に夢中になって感覚の楽しみを忘れるのである。バクティは自然に欲望を食いつくす。*4 

 

 ではなぜ無知はあるのかとお思いになる方もいらっしゃるでしょう。それは後回しでいいかと思います。それは正に毒矢の例えです。はやく苦しみを無くしたいなら神を信じ修行する事をお勧めします。そうしていれば自然と無知がわかるでしょう。

 

 ある人が毒矢で射られたので、みんなが心配して急いで医者を呼んできて、医者がまず矢を抜こうとしたら、その男が叫んだ。『この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、背の高い人か低い人か、町の人か村の人か、これらのことがわかるまではこの矢を抜いてはならない。私はまずそれを知りたい』というのならば、その男の命はなくなってしまうでしょう。*5

 

 ではどのように修行するのかをお話します。僕のお勧めは、バカボンのパパになる事です。

 ここで、赤塚不二夫の葬儀でタモリが読んだ、厳密には思い出しながら喋っていた事を引用します。

 

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と*6

 

 貴方はどうしても苦しみを感じてしまうかもしれません。ですが、全ては神の悪戯です。その事を忘れずにいれば、苦しいと思った時にでも「これでいいのだ」と思えるでしょう。要は心の持ちようなんですし。

 その事について、ヨガナンダと、ラーマクリシュナの弟子ヴィヴェーカーナンダはこう言っています。

 

 神は遠くの天国かどこかにではなく、全てのものの中に、人間の中に、自分の中にいるということがヴェーダーンタ哲学の主張である。ある種の宗教が自分の外にいる人格を持った神を信じない者を無神論者と呼ぶように、ヴィヴェーカーナンダは自分の魂の栄光を信じない者を無神論者と呼ぶ。*7

 

 

 

 

 このヨガナンダの本『あるヨギの自叙伝』ですが、スティーブジョブズが唯一読んでいた電子書籍だそうです。

 

 

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