仏教的な解釈で、名曲をもう一度聴きませんか?

お題「よく口ずさんでいる曲」

 

 

 

 嫌な事、辛い事があると好きな曲を聴くという方がいらっしゃるのではないかと考えます。因みに、僕はこの曲を聞く度に泣いてしまいます。今回はそれを紹介いたしますので最後までお読みくださると嬉しいです。

 

 

 この歌詞には無駄がありません。そのことをお坊さんが解説していたので引用させてもらいます。

 

  『粹』(いき)という字は、「米辺に卒業の卒」と書く。「米が終わる」とは、米は、籾の中に入っていて、籾殻を取って、それが玄米になる。その玄米をまた精米して、芯だけ残るように全部外して、それが大吟醸のお酒になる。ホントに無駄を削って削って削って削って、最後に残った米らしい米のことを『粹』という。最近はの歌は、「言いたいことぜ~んぶしゃべりまくってる歌が多すぎる」とのお言葉です。

ついつい不安になるから、あれもこれもと言葉を重ねて安心してしまいます。そうではなく、「何を伝えたいのか」を自分の中で掘り下げていく大切さ。仏教の話になりますが、ある和上さんが、お説教の時、ただ「南无阿弥陀仏」「南无阿弥陀仏」だけをお話になり、非常に有り難かったというお話しを伺いました。和上さんの言葉から「南无阿弥陀仏」の仏様が出てきて下さった。それは、仏教の解説書に書いてある言葉ではなく、人生を歩んでいく中で「仏様と二人連れ」「仏様のみ光に照らされた」という安心の中から出てきて下さったお言葉なのです。

苦難な人生の歩みの中から、自然と生まれてくるのが『粹』(いき)な世界なのだ、どんな人生を歩むかが問われているよという永六輔さんからのメッセージを教えて頂きました。*1

 

 

  最近、街中でスマートフォンを触っている人は若者だけではなくなりました。意外にもご年配の方が使いこなしていらっしゃいます。視線の先は架空の世界ですが、本当に良いのでしょうか?

 

 

 次の曲です。嫌な事があると、この曲を口ずさみます。

 

 

 

 歌詞のこの部分が好きです。

しあわせの 隣にいても わからない日も あるんだね*2

 

 

  アドヴァイタでもスピリチュアルでも、もちろん仏教でも、「今を生きる」を大事にします。取り返しのつかない過去を思い出しても、起きてすらいない未来を恐れても、意味がないと考えているのです。どちらにも、幸せはないからです。

 

 般若心経というお経はそのほとんどが漢文で書かれておりまして、日本語になおそうと思えばなおせるのですが、般若心経の最後の部分に、「ギヤーテイ ギヤーテイ ハーラーギヤーテイ ハラソウギヤーテイ ボウジーソワカー」という部分があります。ここは古いインドの言葉で、お経本の漢字を見ても日本語には訳せません。
 ここの部分を東京大学の名誉教授でいらっしゃった中村元(なかむらはじめ)先生が、「歩みては歩みては彼の岸にぞいたる。人の世のめざめ、ついに彼の岸にいたることをえたり。」と訳していらっしやいます。
 ここで言う「歩みては歩みては」とは、何処かに歩いて行こうという意味ではありません。『お悟りをひらくために、修行に努力をしましょう。』という意味なのです。
 365歩のマーチも同じです。「幸せは歩いてこない、だから歩いて行くんだね」と歌っていますが、幸せになるために何処かに歩いて行くのではないのです。『幸せになるために努力をしましょう。』と歌っているのです。
どちらも『努力をしましょう。』とうたわれているのです。
 では、何に努力をしていただきたいのか申しますと、私は、お説教を聞く努力をしていただきたいのです。*3

 

 

 ここに僕なりの解釈を付けたすなら「仏様のお説教は身の周りにありますよ」です。

 

  

 次の曲は男らしい曲。

  

 

 “きままに”という言葉が何度も出てきます。失恋しても愛する人に執着せず前向きに生きようという姿勢が伝わってきます。

 

 任せられなくても
いやだ いやだと いくら抵抗してみても
そうなる時には そのようになる
お任せするしかない
と 覚悟する*4

 

 

 「私が何々した」という考え方を持っていたり、「私は体」、「私は心」と思っているなら苦しみが貴方に付きまといます。そのような方は、自然に任せて生きるべきなのです。二元論を捨ててみましょう。この様な考え方をした歌詞が次の曲です。

 

 

 

 

 

 自分を捨てて何かに身を任せ生きる事ってどれほど大変な事でしょう。そのために修行僧は何年も頑張っているのです。それすらも神仏の恩恵なのだとわかるまで。

 

ある朝、川を渡り、その日の夕方、再び同じ川を渡ったとします。夕方渡った川は、朝渡った川と同じでしょうか? 朝の川の水のセットと、夕方のそれとは違うものですか? 2つのうちどちらかだけが「川」なのですか、あるいは「朝の川」と「夕方の川」という2つの川が別々に存在するのでしょうか? もし、昼にもその川を渡ったとすれば、「昼の川」という別のものが存在するのでしょうか?

 このことをよく考えてみてください。時間ごと、瞬間ごとに、川の水はまったく違うものに変化していませんか? では、「川」という実体はどこにあるのでしょう? 川岸や川底のことでしょうか? 結局「これが川です」とか「川」などと、明確に指摘できる実体は見つからないんですね。「川」というのは、絶え間ない水の流れにつけられた単なる名前にすぎないのです。

 心も川の流れと同様に、一瞬たりとも止まることなく変化しつづける流れのことをいうんですね。すぐに過ぎ去っていく流れの、ある瞬間をとって「これが私の心です。永遠の心です」と指し示すことができるでしょうか? たとえばある人にたいして‘怒り’の心が生まれました。この怒りは永遠に変化しないものでしょうか? しばらくすると同じ人に対して‘慈しみ’が生じることもありますね。もしこの慈しみも永遠なものならば、互いに対立する2つの心が、同時に実在するということでしょうか?

 この事実を探究していくと、「心」という実体はないという結論が、自ずと導きだされることでしょう。それは、猛烈なスピードで次から次へと生滅し多様に変化する流れにつけられた名前にすぎないのです。車も、川も、身体も、心も、すべてのものは原因と条件によって成り立っているんですね。 *5

 

業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である(清浄道論Visuddhi Magga)

 

 

  貴方の見ている世界は、夢幻なんです。貴方が行為している事は在るように見えて無いんです。例えば、それはドーナツの穴。穴は単体では存在しない。ドーナツがあるからこそ穴はある。そのドーナツですら材料が揃った上で人の手により生み出される物。何かそれだけで存在する者なんて、この世にありません。

 勘違いしないでほしいんですが、これは厭世主義の教えではありません。むしろ、在って無い様な世界だからこそ、前向きに明るく生きられるんです。

  因みに、ドーナツの例えは仏教用語で言うと縁起です。この縁について唄ったと思うのが、次の曲です。

 

 

 

 

 最後に紹介するのは中島みゆきさんの『糸』。僕の方から多く申す事はありませんので、お坊さんの解釈を引用します。

 

仏教の「縁」というものに通じる歌であろうと思います。
誰もわからないのです。たとえ出会う原因・結果があろうとも。

でもいまこのとき、ここでめぐりあえたこの「不思議」に、
わたしはただただ、手を合わせたくなるのです。
この「不思議」も「不可思議」という仏教からの言葉になります。
言葉に表すことの出来ない境地とされます。

おりなす糸は いつかだれかを 温めうるかもしれない*6
この「かもしれない」に、「だから善く生きよう」という
願いを感じずにはおれません。*7

 

 

 

 

  色即是空、空即是色。ざっくばらんにまとめると、「在るようにみえて無いんだぜ!」って事です。夢をみている間は存在するように思いますが、目を醒ませば実在で無かったとわかります。

 ここで質問です。仏教では一切皆苦や輪廻転生を教えてますが、苦しみを感じたり生まれ変わる「私」はどこにあるんですか?

 もう一つ「無我」という教えもあります。言葉の意味は理解しても本当に私は居ないとわかる必要があります。苦しみをなくしたいのであれば、ね。

 

  〈真理〉は、途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくこ とのできないものなのです。それが私の見解であり、私はこの見解を絶対的に、かつ無条件に固守します。無限で、いかなる条件づ けも受けず、どんな途によっても接近することのできない〈真理〉は、組織化しえないものであり、また、特定の途をたどるように人を導いたり、強制したりするような、どんな組織体も形成されてはならないのです。もし、あなたがたが、最初にこのことを理解されるなら、ひとつの信念を組織化することが、いかに不可能であるかがおわかりになるでしょう。信念というのは、純粋に個人的なことがらであって、組織化することはできず、また、してはならないものなのです。 もしそうするなら、それは生命のない結晶体になってしまいます。それは、他人に押しつけずにはすまない教義や宗派、宗教になるのです。

 これこそ、世界中の誰もがしようと試みていることなのです。〈真理〉は狭められ、おとしめられて、無力な者たち、かりそめに不満を感じる者たちの慰みものにされています。〈真理〉を引き下ろすことはできません。むしろ、ひとりひとりが、そこへ上る努力をしなければならないのです。あなたがたは、山頂を谷底へ運ぶことはできないのです。*8

 

 

 

 他人の修行は自分の修行になりません。それに、「他人の幸せが自分の幸せ」みたいな事いう人がいますが、他人なんてどこにいるんでしょうね。自分がどこにいるかもわからず、なぜ他人が出てくるんでしょう? それは、夢幻をみているからではないでしょうか。

 

 最後に、最近の曲で大好きな曲を紹介します。

  

 

 この曲の好きな歌詞を抜粋します。

 

 니 멋대로 살어 어차피 니 꺼야

애쓰지 좀 말어 져도 괜찮아*9

 

 長々と曲を紹介して来ましたが、幸せって何かわかりましたか?

 わからなかったら、自問自答してみつけてみてくださいね。最後に、上記の和訳を掲載して終わります。

 

好きなように生きろよ どうせお前の人生なんだから

努力もすんな 負けたっていい*10*11

 

 

 

 

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